ゲームプレイ
ストーリーについて

Shadow Gambit のストーリーは過去作の Shadow Tactics と Desperados 3 とは異なり、少し複雑な作りになっています。特に "誰の視点から見るか" という点を考慮する必要があって、そこを意識しないとプレイヤーにとって心に響くものにはならないかもしれないです。

何を描いているのかShadow Gambit は、その世界の中で "マーリーの苦悩と救済" を描いています。しかし主人公はアフィアなのだから、プレイヤーはアフィアの視点で世界を眺めます。それは次のようになります。 アフィアは、とある海賊船の船舶している場所へ向かった。 そしてアフィアは、「レッド・マーリー」を救い出し、航海士としてマーリーに乗り込むことに成功した。 その後アフィアは、他の船員たちを復活させるために様々な島へ向かった。 やがてアフィアは、異端審問会の長である「イグナシア」とマーリーの確執に巻き込まれた。 その中でアフィアは、マーリーの抱える苦悩と船長「モルデカイ」の思いを知った。 彼らの関係を知ったアフィアは、マーリーを励まし、鼓舞し、協力してイグナシアを倒しカリブ海を救った。 そしてアフィアは、海賊船レッド・マーリーの新たな船長となった。 このように、私たちプレイヤーは "アフィアの視点から" その世界を見ることになります。そしてそれはカリブ海を救うというものになります。 しかしそこには、もう一つ別の物語が進行しています。それが "マーリーの物語" であり、マーリーの視点から見た世界です。

海賊船レッド・マーリーの物語Shadow Gambit の主人公はアフィアですが、私たちはストーリーの主語を「マーリー」と置き換えることができます。それは次のようになります。 海賊船レッド・マーリーは、異端審問会の長「イグナシア」によって捕らわれ、尋問されていた。 そのときマーリーは、呪われた海賊「アフィア」の出現に気づき、助けを求めた。 無事解放されたマーリーは、アフィアが航海士として上船することを認め、アフィアの手を借り、他の船員たちを復活させていった。 その途中でマーリーは、イグナシアが船長の頭蓋骨を持っていることを知り、その奪取を試みた。 しかしマーリーは、イグナシアの策略により再び捕らわれ、やはり再びアフィアによって解放された。 そうした中でマーリーは、船長の死についての苦悩をアフィアに打ち明けるようにもなっていた。 そしてマーリーは、アフィアの協力を得て、イグナシアを倒し、自身の過去と苦悩を清算した。 このように、私たちプレイヤーは "マーリーの視点から" その世界を見ることができます。 そのストーリーはアフィアから見たものと変わらないのですが、描かれているものがカリブ海を救うことではなく、マーリーの苦悩と救済になります。

視点の変更マーリーの視点から Shadow Gambit の世界を見ることで、私たちはマーリーの苦悩を知ることができます。それは次のようなものです。 マーリーは、自身にその力がありながら、船長の死を回避することをしなかった。そして、たとえそれが船長自身の命令であったとしても、その判断は正しかったのかと自身に問いかけ、苦しんでいた。 やがてマーリーは、その苦悩につけこまれ、船長の死を回避し昔のように一緒に航海したいという "マーリー自身の願い" を増幅させ、カリブ海を消滅の危機に晒してしまう。 しかしそれは、船長の意思と願いを正しく理解する第三者であるアフィアによって回避される。そしてマーリーは、ようやく船長の死を受け入れ、アフィアという新しい船長のもと航海を続けることになる。 このようにマーリーは救済されますが、それについてアフィアという第三者が大きな役割を果たしています。そして、世界を見つめるための視点をマーリーではなくアフィアに設定したものが Shadow Gambit のストーリーになります。

その表現は成功しているか?主人公の視点で描きながらも他の誰かを描く、特に苦悩や救済について描くというのは他のゲームでもたびたび使われている方法です。 では「Shadow Gambit: カリブの呪い」はどうかというと、あくまでも他のゲームとの比較ですが、少し弱いと思います。そしてそれは、主人公であるアフィアについて描き切れていないということが理由の一つですが、他にも理由はあると思います。 例えば「Metal Gear Solid 3: Snake Eater (MGS3)」では主人公ジャックの視点で描きながら、ザ・ボスの苦悩と救済を描き切りました。また、「ファイナルファンタジーIX (FF9)」ではジタンを主人公としつつ、他の多くのキャラクターの苦悩と救済を描き切りました。そして両方とも、主人公についてもしっかりと描き切りました。 もちろん、MGS3やFF9を比較の対象とするのは制作にあたっての費用などの点から公平ではないと言えます。それらはキャラクターたちの背景とその思いを膨大なテキストとイベントによって描いていて、それをインディーである Shadow Gambit にも求めるのはやはり酷な話だと思います。 しかし「Chicory: A Colorful Tale」のように主人公と他の誰かの苦悩の両方を描くことに成功しているインディーのゲームもやはりあります。 そう考えると、なぜ Shadow Gambit のストーリーが微妙に薄いのかは、ストーリー自体ではなくゲームプレイの特徴も原因の一つだと思えてきます。

サンドボックスとストーリー誰かの苦悩や救済を描く場合は物語主導のゲームプレイになっていることが多いはずで、メカニクスを楽しむというサンドボックス的なゲームプレイを提供する Shadow Gambit には、そもそもの話としてストーリーを体験させるのは難しいと思います。それは「Metal Gear Solid V: The Phantom Pain」もやはりストーリーが薄いといった感想が述べられることがあるのと似ています。 Shadow Gambit では主人公アフィアについても描かれているのですが、サンドボックス的なゲームプレイによって、どこか断片的で、あとでそれらをつなぎ合わせてようやく理解できるといった感じになっています。それによって、アフィアがまるでマーリーの物語を描くための手段として存在しているだけのような気さえしてきます。 ストーリーがどのような作りになっているとしても、私たちプレイヤーは操作の対象であるアフィアを主人公とし、その視点でゲームの世界を眺めることになるのは自然なことです。そこが薄くなってしまうことで、たとえストーリーはしっかりと描かれていても、やはり薄いと感じてしまうんだろうなと思います。

個人的には大好きなストーリー本当に個人的な好みですが、Shadow Gambit のストーリーは私が好きな要素を二つも持っています。 一つは、主人公の視点を他者のものとして扱い、他の誰かの苦悩と救済について描くこと。もう一つは、第三者の持つ考え方や価値観に触れることで何かが変わることです。 一つ目については前述のMGS3やFF9など、二つ目については、例えば「ファイナルファンタジーX」のように、大きく価値観のことなる人物の出現によって何かが変わるといったものや、「Lost Nova(日本語なし)」のような、異なる惑星の住人と接することで主人公の考えかたなどが変わるといったものです。 その両方とも持っているゲームとなると、「デュープリズム」や前述の「Chicory: A Colorful Tale」、それと「テイルズ・オブ」シリーズや「ゼノサーガ」などです。大き目な規模のJRPGは割とそういう傾向があるような気がします。

Shadow Gambit はアフィアを主人公としつつマーリーの苦悩を描いています。そのアフィアはマーリーと船長の関係を知らない第三者で、その介入によって見事にマーリーを救って見せました。 アフィア自身についての描写が薄い点については残念ですが、それでも、サンドボックス的なゲームプレイの中でストーリーを体験させることの難しさを考えれば、私にとっては挑戦してくれたこと自体が嬉しいです。 ストーリーだけでなくゲームプレイも含めて、いわゆるAAAと呼ばれる大作ゲームが取り組むようなことに挑んだのは無謀だったのかもしれないし、収益といった数字についても確認はしていないですが、純粋にプレイヤーとしては「よくぞ作ってくれた」と思っています。