Celeste

  • Steam/Nintendo Switch/PlayStation 4/Xbox One
  • 2018年1月25日/2018年5月10日/2019年09月10日/2018年1月26日

Celeste。 アクションの大変さでキャラクターの内面を表現できるなんて考えたこともなくて、Celeste をプレイして本当にビックリしました。 キャラクターの内面とかはセリフなどによって語られるものであり、そしてそれは、プレイヤーの体験するアクションの大変さとは別である。それが Celeste をプレイする前のアクションゲームに対するイメージでした。自分がコントローラーを操作してどう感じたかなんてゲームのキャラクターとは全く関係ないんだと思っていました。

セレステ山の頂上を目指すというストーリーで、主人公のマデリンには何かしら事情や悩みみたいなものがある。そしてこう思いました。「あぁ、ステージを進めるごとに何かしら語られていくんだな」と。それは自分のプレイ体験とは何の関係もないんだ、語られたとしても語られなかったとしてもプレイ体験には何の影響もないんだ。そんな先入観を持ってプレイしていました。そしてゲームを進めていたら、その先入観がブッ壊れる瞬間が訪れました。

あるステージでマデリンがパニックになります。「息ができない」と。そのとき、プレイヤーである自分は落ち着いてゲーム画面を見ていられる状態ではなくなりました。まるで自分が息ができなくなったかのようで、胸が苦しくて、とにかく何とかしたい。同時にマデリンが心配で、一秒でも早く落ち着かせてあげたいけどプレイヤーである自分にはどうにもできない。とりあえずセリフを進めるしかないと思っていたら "羽根を思い描いてフワフワさせるんだ" と、つまりコントローラーを操作させてくれる。それはきっと効果がある、この苦しさを解決してくれる、そう思って一生懸命フワフワさせました。 無事にマデリンが落ち着いてステージをクリアしたときの安心感、けれども激しく動揺する自分。アクションゲームでこんな体験をするなんて……。 マデリンがパニックになったとき、自分の脳から溢れ出た記憶はそれまでのゲームプレイの大変さでした。これは無理かもこれは無理かもと思いながら何とか進めてきたという体験です。そして、自分が体験したそのつらさの記憶が、パニックになったマデリンの苦しさと重なった瞬間、マデリンの抱えている思いは自分のプレイ体験と同じになりました。セリフとか映像とかで知るのではなく、自分のプレイ体験こそがマデリンの抱えている思いなんだと。

マデリン自身やキャラクターたちの口から出る "帰ってもいい" "無理なんだよ" という言葉と "自分にはできる" "あんたならできる" という言葉。 Celeste は凄く難しいジャンプアクションで、「もういいか、やっぱ無理」という思いが常に自分の中にありました。けれども同時に「きっとできる、その先に何かがある」という根拠のない思いもありました。そして、ゲームを進めてキャラクターたちと一緒にその思いを行き来するうちに、それがゲーム内のキャラクターのことなのかプレイヤーである自分のことなのか分からなくなる。 最終ステージに挑むときには「もう大丈夫だ、登れる、必ず登れる」と信じていました。ミスしたって気にしないし、むしろ楽しい。そんなプレイヤーの気持ちを分かっているかのように、マデリンたちの口から前向きで楽しい言葉が語られます。 そして、登ろう、終わらせようと思っていたはずなのに、いざクリア直前まで行ったら「あと1ステージくらいあってもいいよね」と、これまでのプレイ体験を思い出しクリアを惜しんでしまう。けれども終わらせなきゃいけない。そのためにマデリンは登ってきたんだし、自分はプレイしてきたんだから。

ゲームプレイですが、とりあえずクリア(山頂に到達)するだけならプレイ時間は10~15時間くらいかなと思います。ただ、アクションが得意かどうかも影響するのでハッキリとは予想できないです。アップデートで追加された「Farewell」のクリアなど、本格的にやり込んだ場合のプレイ時間は予想不可能です。 とにかく難しいです。アクションはあまりプレイしたことがないという人は、ゲームクリアまで進めることができない可能性もあるというくらいに考えたほうがいいと思います。 やり直してやり直して登っていくというのがプレイ体験として重要になるので、とにかく辛抱して挑戦し続ける必要があります。 ステージごとに死亡回数が記録されるのですが、200回とか300回とかになっても気にしてはいけません。自分の場合は最終ステージだけで900回でした。クリアした時の合計が2628回、集めたストロベリーは108個でプレイ時間は12時間でした。

プレイ中は「ぅふっ」とか「ぬぅん」とか、どう表現していいか分からないような声を上げていました。どう動かせばいいかは分かっている。でも落ちる。あと少しコントローラーのボタンを押すのを遅らせればいい、画面を良く見るんだ、分かっている。それなのに、あぁそれなのに……。 ゲームプレイとしては自分の操作の腕前が重要で、その上達を楽しむというものになります。けれども、その難しさに耐えて、主人公のマデリンや他のキャラクターたちの言葉に共感できたとき、マデリンはプレイヤーでありプレイヤーはマデリンであると実感できると思います。

別のゲームの話ですが、「CrossCode」というゲームが好きでSteamの掲示板とかを見ることもありました。そして「CrossCodeのレアとCelesteのマデリンは最高に可愛い」という感じの投稿がありました。それを読んで「レアは分かる。でもCelesteってアクションだよね?アクションのキャラクターが可愛いって何?」と思っていました。 でも Celeste をプレイした今なら分かります。マデリンは可愛い。そして、その可愛さというのはプレイ体験があってこそなんだと思います。プレイしていない場合、マデリンはゲーム映像の一部であり、"それを動かして楽しむ" という感じだと思います。でも、実際にプレイしてアクションの大変さを体験し、それがマデリンの抱える思いと重なったとき、マデリンは人であると感じる。 過去の自分を反省し、出した答えを今、書こうと思う。 「マデリンはレアの次に可愛い」

これまでは、アクションゲームは難易度と操作性が大事でストーリーとかキャラクターとかはプレイ体験に何の影響もないんだと、そんな極端な考え方をしていました。そしてその考え方は Celeste によってブッ壊されました。 マデリンの思いはアクションに挑んでいる自分と同じ。キャラクターの内面が自分のゲームプレイと一致する。それによって、マデリンは確かに Celeste というゲームの世界に生きていると感じ、自分が Celeste というゲームを体験したというだけではなく、Celeste というゲームの世界を体験したんだと感じることができました。 コントローラーを操作することだけがアクションゲームの楽しみではない。これはもしかしたら、アクションゲームが好きな人にとっては当たり前のことだったのでしょうか。自分にとっては本当にビックリしてしまうような体験でした。