Cult of the Lamb
- Steam/GOG/Nintendo Switch/PlayStation 4, 5/Xbox One
- 2022年8月11日
結局、私は悪の教団のボスとして不適格なのだろう。 説教をしたり作業を割り当てたり豪華な祈りの像を建てたりと一応は教祖として振る舞っていたが、本当は彼らと一緒に作業をこなし、彼らと一緒にサボり、そして彼らと一緒に寝たかった。 しかし彼らには彼らの役目があり、私には私の役目がある。使命を果たすまでの間は死なない身だから、私のするべきことが彼らと大きく異なることを受け入れるしかない。
信者たちは毎日木材を作り、石を掘り、畑で野菜の世話をした。作業の合間におしゃべりしていることもあるが、笑顔であったり顔をしかめたりと表情豊かだ。そして彼らを良く見ると、私が贈ったネックレスを身に着けているのが分かる。 彼らは不味い飯を食うとゲロを吐き、食い終わるとその辺でウンチをする。そして清掃役の信者がそれを綺麗にし、皆が作業に戻る。 私は聖戦でボスを倒した次の日は必ず休日とし料理を振舞い、私自身は釣りに興じた。信者たちもおしゃべりや怪しげな踊りを楽しんでいた。
ブレノという信者がいた。ピンク色のウサギで、いつも私と一緒にいて、そして他の誰よりも昼寝が多かった。 信者たちを悪魔として召喚すると一緒に聖戦で戦ってくれる。そしてブレノは私が初めて召喚した信者で、ハトホルというアビリティを持っていた。聖戦中に時折フラっといなくなり、しばらくするとハートを持ってきてくれる。さらに聖戦中のハートのドロップ率も上がる。 初めのうちは、召喚すると死んでしまうのか、敵に攻撃されると死んでしまうのか、そういったことが気になってグズグズと悩んでいたが、2つ目の聖戦が意外と難しかったため、少しでも生存率を上げたいとブレノを召喚した。 その効果は凄かった。ハートに余裕があるというのはもちろんだが、何よりも一人ではないという実感が私を安心させた。聖戦中に信者が攻撃されることはなく、聖戦後に死んでしまうということもない。しかし夜をまたぐと寝不足になるので、聖戦後はすぐに寝かせた。 それ以降、私とブレノはいつも一緒だった。 そのブレノが高齢者になり連れていくことができなくなった。いつかはその時が来ると分かっていても、やはり寂しかった。他の信者を連れていったりもしたが、ブレノがいないという感覚が消えることはなかった。 そしてブレノは死んだ。そのとき私は、ひとつの時代が終わったように思えた。進まなければ。ブレノはもういないが、しかし他の信者がいる。彼らを召喚し私自身の戦い方を変え、そして敵を倒そう。 やがて教団は成長し、一度に3人の信者を召喚することができるようになった。もう寂しさはないが、それでも時折、ブレノの寝ている姿を思い出すことはある。
テグレユル(テグ)。ヴァイオレット色のクワガタで、ほとんどの時間を教団施設の外で過ごし、施設内にいるときは寝ていることが多かった。 テグは宣教師としての役目を担っていたが、私はいつも肉を持ち帰るよう伝えて送り出した。肉だけでなく入信希望者を見つけることもできるが、何を探し出すかによって無事に帰ってこれる確率が変わる。その中で肉が一番確率が高かったのだ。 私は召喚のときと同じく、無事に帰れないというのは死ぬということなのか、それとも病気になるが生きて帰ってくるということなのか、そういったことを気にしていた。そして悩んだ末にテグが選ばれた。 送り出すときは気が気でなく施設の入口まで見送ると、テグは手を振り旅立った。確率は84パーセント。ほぼ成功する数字だが、16パーセントを引かないという保証はない。 結果が分かるまでの間に私はブレノを連れて聖戦に出向いた。何度か失敗したあと、非常に運の良い聖戦に当たり、タロットによる強化もハートも十分な状態でボスに挑めた。しかし私は完全に調子に乗っていて戦い方が雑だった。7つくらいあったハートはあっという間になくなり、そして死んだ。 ああ、やってしまったと私は落ち込んだ。あんなに運の良い聖戦はそうそうない。それを無駄にしてしまったのだ。 教団に戻ると夜だった。私はブレノを寝かせ、後悔しながら、ブラブラと蜘蛛を捕まえていた。やがて夜が明け皆が作業を始めたとき、宣教師の施設の前に誰かがいることに気づいた。テグだった。いつからそこにいたのかは分からないが、無事に戻ってきたのだ。テグは施設の前に立ち笑顔で手を振っている。それを見て私は少し憎らしく思った。運を無駄にしてしまい落ち込んでいる自分をよそに、自慢げな顔をして手を振っている。しかし涙がこぼれそうなほどに嬉しかった。 テグは大量の肉を持ち帰ってきた。私の後悔はどこかに吹き飛びすぐにでも料理を作りたかったが、まずは寝不足のテグを寝かせ、そして翌日に肉料理を皆に振る舞った。 そんなテグも高齢者となり、そして死んだ。初めて肉を持ち帰った時の自慢げな顔は、今でもはっきり覚えている。 そんなテグのおかげか、あるいはテグのせいか、その後クワガタの信者は必ず宣教師を担うことになった。
Cult of the Lamb にはNPCとの出会いがある。それは例えば「Darkest Dungeon」や「Battle Brothers」などに似ているかもしれないが、このゲームでは自分の分身であるキャラクターを操作し、さらに生活感と呼べるものが加わる。そしてそこには、NPCというプログラムされたキャラクターが、その世界に個性を持って存在していると感じさせるだけの説得力があった。 もし始めからプレイしたとして、またブレノやテグに出会えるかどうかは分からない。だからその都度、その違う状況で、しっかりとプレイしていかなければならない。以前はこうだったとかあの信者がいればとか考えていても仕方がないのだから。 一期一会という言葉をシングルプレイのビデオゲームで思い浮かべるのは、ランダムだからこそなのだろう。
ゲームプレイについては、まずプレイ時間は8~20時間ほどで幅があるはず。もし信者たちと過ごす日々を楽しみたいのであればプレイ時間は長くなる。 ローグライトであるためダンジョンの攻略には運が絡むが、難易度自体はそれほど高くはない。教団をしっかりと成長させ、入手武器の初期レベルを上げるなどしていればクリアできるだろう。 アクションが好きな人にとってはダンジョンの攻略とやり込みが気になると思うが、私は教団と信者たちというストラテジーな部分に注目してプレイしていたので良く分かっていない。主人公のマントを変更することで「ダメージは増えるが○○」といった効果を付けることができるので、そういった制限プレイ的な楽しみ方はできると思う。しかしそれによって報酬等が変わるといったことはないため、やはり信者との生活への興味を基礎としないと、アクションゲームとしてやり込む気持ちも維持できないかもしれない。
主人公、教団そして信者たちの関係はプレイヤーの楽しみ方で変わるが、私は悪の教祖として君臨することはできなかった。 聖戦中も教団の活動についての知らせが届く。夜が明け新しい一日が始まったこと、施設が完成したこと、誰かが病気になったこと、そして、誰かが死んだこと。 病気になった者を放っておくと死ぬ。死んだ者を放っておくと腐る。だから病気や死亡の知らせが届くと、私は聖戦を中止して教団に戻り、病気の者を寝かせ死者を埋葬した。 そして信者の中には自らを生贄として忠誠を尽くしたいと願い出る者もいる。しかし私はそれを毎回拒否した。私は生贄など必要ないと思っていたし、そうあるべきだと思っていた。 何故か。綺麗ごとはいくらも書けるが、つまり私自身の手で彼らの命を奪うことが怖かったからだ。
悪の教団という設定であることから予想できると思うが、どうあっても避けられない厳しい状況を強いられることもある。 ある聖戦中、敵の司祭に操られた信者たちが私を攻撃してきた。そして私は彼らを攻撃せず殺されることを選んだ。その行為は信者たちを失望させたが、すぐ後に私自身をも失望させた。私は死なない身だから、彼らに殺されておけばいいと思っていた。しかし操られていた信者たちは戻ってこなかった。彼らは殺されるという結果に変わりがないのなら、教祖である私がやるべきだったのかもしれない。 「ああ教祖様、申し訳ありません」。彼らの謝罪の言葉が頭の中にこだまする。彼らのせいではない。操られていたのだ。もし「助けてください」だったらどうだったろう。もしかしたら、私自身が彼らを殺すことが彼らにとっての救いになると判断したかもしれない。 何が正解かは分からないし正解などないのかもしれないが、やはり私は悪の教祖に向いていないことだけは分かった。
プレイ時間が30時間を超えた頃、このゲームをプレイすることが怖くなった。このまま続ければクリアしてしまうだろうから、私はそれを避けたかった。 替わりに他のゲームをプレイしてみたが、本当はこのゲームをプレイしたいのだから楽しめるはずもない。だから再びこのゲームを起動して聖戦に挑んだ。 一度クリアして終わらせるつもりはない。しかしゲームをやり込めば、私にとって信者たちは単なるプログラムされたキャラクターとなるだろう。 初見プレイ時の彼らとの出会いはやはり特別で心地よく、その感覚にいつまでも浸っていたかった。そんな状態におちいったのはどれくらいぶりだろうか。
Cult of the Lamb。 信者には信者の役目があり私には私の役目がある。そして私の役目は聖戦に出向き、敵の司祭を倒すことだ。 しかし少しだけ、お互いの役目を私に拒否させて欲しい。私はその役目を果たすまで死ねないのだから、殺されるのは私だけでいい。だからあなた達は生贄になどならずに、教団の庇護のもと寿命をまっとうして欲しい。そのために私は聖戦を拒否するときもあるが、それを許して欲しい。 そしてもし再び出会えたなら、また一緒に生活し、また一緒に聖戦に挑んで欲しい。 これが私の教団の教条だ。